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カクヒトは、キャンパスノートを生活の一部として大切に使ってくださっている方に皆様にインタビューし、使い方や書くことへのこだわりをご紹介しています。

北村 麻子さん

史上初の女性ねぶた師のキャンパスノート

夜の海を彩り、豪快に駆け巡る山車。そしてまるで熱に浮かされたように、囃し、跳ねる人々。青森の夏は「ねぶた」と共に、激しく燃え、儚く散ります。そこは長らく男性主体の世界でしたが、自らの強い意志と小さな体一つで、常識を変えた女性がいます。彼女はそのフロンティアの軌跡をノートに残してきました。北村麻子さん、史上初の女性ねぶた師にお話をお聞きします。

北村 麻子さん

1982年生まれ。史上初の女性ねぶた師。2012年、デビュー作「琢鹿(たくろく)の戦い」で、新人としては異例の優秀制作者賞を受賞。北村さんの父は、数々の功績を残すねぶた師の第一人者、北村隆氏。

北村さん、今日は宜しくお願いします。(交換した名刺の裏面を見て)これが北村さんの作品ですね!

はい、これは下絵ですね。

名刺の裏にデザインされた、北村さんのデビュー作「琢鹿(たくろく)の戦い」(2012年)の下絵

左上の下絵が、最終的にこのねぶたの姿に。ねぶた師は、団体(地元企業・学校・商店会など)から制作を請け負い、下絵から骨組みづくり、紙貼り、色づけまでを総合的に指揮する。

お父様もねぶた師でいらっしゃいますが、小さい頃からの夢だったんですか?

いえ、全く!ねぶた師になりたい、と本気で目指すようになったのは23~4歳の頃です。それまでは、全然。そもそも女の人がなれるものという認識がなかったですし、ずっと父の背中を見てきましたので、自分がまさかそんな大それたことができるなどとは微塵も考えませんでした。

やはり「男の世界」ですか?

幼い頃から、兄は色づけまで手伝わせてもらっているのに、私は紙貼りまでしかやらせもらえないなど、女性が手を出せる範囲は限られていました。
あれだけの大きさ(幅9m・奥行き7m・高さ5m/重さ4トン以内)のものを、約1年かけて、のべ数十人のスタッフを率いて制作するわけですからね。表現も荒々しさが求められますし、大工仕事も多い。かつ、ねぶたは依頼元(地元企業・学校・商店会など)が数千万の費用をかけてお披露目する、その団体の”顔”ですから、それを請け負うプレッシャーもものすごいですよ。女性にできるわけがない、という認識が関係者全員の中にあったと思います。

それが、突然どんなきっかけで?

高校卒業後、色々な仕事を経験してきたんですが、なかなかこれだ!というものに出会えませんでした。20歳すぎた頃から、このままで良いのかと不安になって。パソコン教室に通ったり、習い事をしてみたり、自分の才能やセンスのようなものを生かせることはないかとジタバタしていました。

ねぶた師のご一家なので、てっきり当たり前のようにねぶたの道に進まれたのかと…

よくそう思われますが、ねぶた師の家に育ったからこそ、簡単に目指そうとは思わなかったかもしれません。厳しい世界なのを痛感していましたから。

なるほど、そういうものですか。

私が自分に合った仕事を探していたのとほぼ同時期に、父へのねぶた制作の依頼が急減したんです。年に3台制作していたのが、1台になってしまって、一気に生活が苦しくなりました。両親も夫婦喧嘩ばかりするようになって、でも私にはどうすることもできない、見て見ぬ振りをするしかありませんでした。

第一人者のお父様でもそんな時期があったんですか。

それだけ、ねぶたで食べていくのは大変なんです。その後、3年ほど厳しい時期が続きましたが、転機は訪れました。2007年に父が制作したねぶたが、その年のねぶた大賞をいただいたんです!今までにない構図や光の使い方に挑んだ実に見事な作品で、私を含め多くの人たちが衝撃を受けました。

2007年のねぶた大賞受賞 北村隆氏作「聖人聖徳太子」

ご家族の皆さんもさぞかし嬉しかったでしょうね。

本当にどん底まで落ちていましたから、普通だったらそこで負けてしまうと思います。それが、底辺から這い上がってきて、みんながあっと驚くようなねぶたをつくる、そんな父の姿を見たときに、心の底から思いました。父がここまでして築き上げていきたものを、父の代で終わらせたらだめだ、と。

それでご自身が継がれようと?

はい、ねぶたの魅力に完全に取り憑かれてしまったんです。

でも、厳しい側面もよくご存知だったわけで・・その辺の葛藤はありませんでしたか?

それが、なかったんです。私にしてみたら、ずっと自分のやりたいことが見つけられなくて、苦しんできて、やっとそういったものに出会えた、という感覚でした。迷いはなかったです。人間、本気でやりたいと思えたら、たとえその世界がどれだけ大変であろうが、関係ないんですよね。

すごい覚悟の決まり方ですね。

自分でも不思議でしたよ。ただ、父が人生をかけて挑んでいることだったので、一時の感情でやりたいと言っておいて、後からやっぱりやめます、というのは絶対にできない。だからこそ、迷いはなかったものの、慎重にならなければと思いました。そこで、すぐに父に気持ちを伝えるのではなく、まずは一人でねぶたの下絵を描いてみることにしたんです。最後まで描けたら、そこで初めて父に言おうと。

でも、ねぶたの絵って描こうと思って描けてしまうものなんですか?

いや、もちろん簡単じゃなかったですよ!でも、それだけ本気であるところを見せたかったし、自分を試す意味合いもありました。父の部屋にある資料を参考にしたり、先輩たちの作品を真似したり…自分ではできたと思っても本当にこの状態で見せてしまって大丈夫かと不安になって描き直したり。3~4ヶ月試行錯誤して、ついに父に見せました。

こちらが、北村さんの初めて描いた下絵。初めてとは思えない完成度!

それは驚かれたんじゃないですか?

「本当にお前が描いたのか?」って(笑)その場で、ここはこうじゃないぞと教えてくれて、その後何度か父の教えを受けながら修正して、何とか完成させました。

ついに師弟関係の始まりですね。

私もそう思っていたんですけど(笑)実は下絵を見せたときは、特にねぶたづくりを手伝いたい、とは伝えなかったんです。言わなくても察してくれるだろうと。下絵を指導してくれたので、てっきり受け入れてもらえたと安心していたんです。

お父様にはそんな気はなかった?(笑)

しばらくして、次のねぶたの準備が始まって意気揚々とねぶた小屋に通ったら、全く相手にされませんでした(笑)父も他のスタッフさんも、完全無視ですね。指示も出なければ、もちろん教えてももらえない。何度も泣きました。

くじけませんでした?

全く!やっと見つけたやりたいことだったので、そこでくじけるとかはないです。悔しい思いをするたびに、絶対やってやる!って思っていました。

強いなあ!

後から聞くと、父はどこまで本気なのか半信半疑だったようです。私の方は無理強いしてもしょうがないし、とにかく自分の姿で本気を見せるしかないと思っていました。そこで、まずは毎日ねぶた小屋に通い詰めて、父や先輩たちのやっていることを、ノートに記録していきました。

やっとノートの話が出てきました(笑)ありがとうございます!

お待たせしました(笑)
職人の世界なんで、普通はノートなんて取らないんですよ。見て盗め、という感じで。でも私の場合、他の先輩たちとは10年以上のキャリアの差がある。きちんと記録して覚えていかないと絶対に追いつけないので、とにかくメモを取ったり、写真を撮って貼り付けたりしていました。

北村さんはA4サイズのキャンパスノートを愛用。「時間がない中でばばっと描くし、挿絵も描くので、このくらいのサイズじゃないと。」立って描くときもあれば、床で描くときもあるそう。

走り書いたようなメモが現場の空気を物語る。

現場の臨場感が伝わってくるノートですね!

現場はものすごいスピード感で動いているので、罫線に沿ってきれいに…とはいきませんからね。何度もノートを見返して、覚えていって、できることが増えてくると、次第に少しずつ指示をもらえるようになりました。ぱっと指示が飛んだときに、すぐ対応できたら、あーできるんだなとわかってもらえて、その繰り返しでしたね。

北村さんの成長のそばに常にノートがあったようで嬉しいです。

手帳でも、何だかやる気になる手帳ってありますよね。ノートもそういうのがあると思います。持っているとちょっとモチベーションが上がるような。キャンパスノートは、持ったときの厚みとか感触とか表紙のデザインなんかも、うまく説明できないんですけど、なんか”できそう”な気がするノートなんですよね。

“できそう”なノートたち

これは嬉しいお言葉!実際にご活躍されている北村さんに言っていただけると、説得力があります!

さて、こうして自ら道を切り開かれて、今女性初のねぶた師として活躍されていますが、今後どのようなねぶたをつくっていきたいですか?

私は、伝統的な男性的で土臭いねぶたも好きですが、今の時代の流行のようなものもあります。ねぶたを輝かせる電球がLEDに変わっていていることもあり、最近は軽い色合いのものも多いですし、女性の自分にしかつくれないものはあるような気がします。ただ、あまり自分らしさを出そう、人と違うものをつくろうと思っていると、どこか作品にいやらしさが出てきます。自然に自分がつくりたいものをつくる。それが、結果的に個性を出す一番の方法だと思っています。

どうかこれからも、北村さんがつくりたいものをつくり続けていかれることを期待しています!

はい!ねぶた師になったからには、ねぶた大賞を獲るような一流のねぶた師になりたい、というか絶対になろうと思っています。大賞は毎年あるわけですが、その中でも何十年経っても後世に受け継がれ、人々の記憶にずっと残る”名作”と呼ばれるねぶたがあります。ねぶたは基本、祭が終わったら壊されてしまうので、それらの”名作”も現存はしていませんが、その輝きを生で体験した人々の心の中に生き続けます。そういったねぶたを、生涯をかけて1台でもいいから残したいです。

本日はありがとうございました!

(インタビュー@ねぶたの家 ワ・ラッセ、2014年1月17日)

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